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 [その他]

大学1年の夏、箱根の温泉宿でバイトをする事になった。

そういう年頃故、多少の期待はあったが、全員男だった。
8畳くらいの部屋にあちこちから集まった大学生が6人。
布団は敷きっぱなしだった。

仕事の説明を受け、1日の流れに慣れると結構空いた時
間があった。
雑談をしていると結局、そういう話題になった。

6人のうち、体験者は俺1人だった。

メガネをかけた男が「あんなに汗をかくのか?」と聞いた。
「汗?」と聞くと、どうやら漫画などのあのシーンでは
大量の汗をかいている、と言う。

「緊張している時にこめかみに汗を描くように、漫画的表現だ」
と言うとみんなガッカリしていた。
パソコンやネットも無い、11PMや週刊誌グラビアが関の山の時代だった。

相手についてしつこく聞かれるので「1年上の大学の女だ」と答えた。

次の日、昼の配膳作業を終えて部屋で本を読んでいると
メガネが戻ってきて「みんなは?」と聞くので「俺1人だ」と
答えると
「俺は理想の相手を探す。お前は年上の女とやってろ馬鹿!」と
怒鳴ってドアをバターンと音高く締めて出ていった。

事件はその夜に起こった。

夜の作業も終わり、部屋に戻ってきたが誰もいない。
寝付きが悪いので、寝入りばなにドヤドヤと戻って来られても
いやなので、探しに行くことにした。

従業員用の休憩室兼食堂に行くと5人が揃っていたが
何やらうなだれている。

「明日も早いんだぞ、早く戻れよ」と怒鳴ると
奥から小柄な同年代の料理人の男が出て来た。
赤黒い顔色で酒臭い息をしている。

「何だお前はぁ!」とこちらの胸ぐらを掴まれた。

見ると右手に包丁を持っている。

「大学生なんて生意気なんだよ!」と引っ張られると
何十回と洗濯したであろうお仕着せのワイシャツの薄い生地が裂けて
ばらばらとボタンが床に千切れ飛んだ。

後で聞いたが中卒でこの旅館の厨房に入った男が
食堂で騒いでいる大学生たちに腹を立てたのだ。

黙って男の包丁を見ていると右袖を掴んで下向きに
引っぱられた。
薄い生地が節句の吹き流しのように引き裂かれた。

なおもはぁはぁと荒い息をしている男を見たまま
「部屋に戻るぞ」と言うと、皆黙って従った。

翌朝、昨夜の事情を説明しバイトは辞める旨を
女将に伝えた。
料理人は以前にもトラブルを起こしたことがあるようで
女将は詫びながら3日分のバイト代をくれた。

何だか気落ちした残りのバイト大学生も俺にならった。
宿はまだ忙しくなる前であり、新しくバイト募集をするという。

休憩室でタバコを吸っていると、厨房の男がやって来た。
不自然なほど明るい大声で昨晩の非礼を詫びた。

ロマンスカーが新宿に着くまで皆黙っていた。

新宿駅の構内で5人に「じゃ」と別れた。
もう顔も名前も覚えていない。

自宅の最寄りの駅まで来て、喫茶店に入り、流行り始めた
インベーダーゲームに小銭を全部つぎ込んだ。

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